LINE連載 「虎震(トラブル)家の悩める人々~ゆき子の憂鬱(認知症への不安)編」アーカイブ(#6〜#10)
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目次
虎震(トラブル)家の悩める人々~ゆき子の憂鬱(認知症への不安)⑥ ―明子の決断―

「もうこれ以上、母に言いくるめられてはいけない。自分の人生を、自分で取り戻さなければならない。」と家を出た明子。
しかし、家を出たあとも、ゆき子の影はしつこく追いかけてきた。
電話は昼夜を問わず鳴り続け、封書、はがき、LINEのメッセージ、さらには職場への連絡までもが続いた。「あんな男に騙されてどうするの!」「お母さんはあなたの幸せを願っているだけよ」「今ならまだ許してあげる」
――どの言葉にも、後悔や自省の色はなく、ただ「娘を取り戻す」という執着だけがにじんでいた。 限界だった。
明子は内容証明で「絶縁状」を送り、それ以降は一切の連絡を断った。
それから数年。唯一、母と再会したのは、父の葬儀の日だった。
久しぶりに対面した母は、涙を浮かべながらも開口一番こう言い放った。 「お父さんが早く死んだのは、あなたが親不孝したせいよ!」
その瞬間、明子の胸に何かが音を立てて崩れた。哀しみでも、怒りでもなかった。ただ、心の奥に小さく残っていた「許しの可能性」が、完全に消えたのを感じた。
それ以来、母とは一度も言葉を交わしていない。
そんな母が――今になって、家族信託の受託者になってほしいと望んでいる。 二郎からその話を聞いたとき、明子は呆れたように鼻で笑った。
「都合のいいときだけ娘を“利用”するつもりなのか」と思った。
あれほど強い言葉で断ち切られた親子関係を、なかったことにしようとする図々しさに、怒りすら湧いてきた。
けれど今、彼女はタクシーに乗って郷の事務所へ向かっている。 雨はすっかり上がり、雲間から光が差し込んでいた。
明子は無言で窓の外を眺めながら、自分の行動に戸惑いを覚えていた。
「話を聞くだけ」
――そう自分に言い聞かせながらも、どこか心の奥で、何かが微かに動いているのを感じていた。
許したわけではない。信頼が戻ったわけでもない。けれど、これ以上「何もしないまま終わること」が、自分にとっても後悔になるかもしれない。そんな予感が、彼女を動かしていた。
虎震(トラブル)家の悩める人々~ゆき子の憂鬱(認知症への不安)⑦ ―母娘の再会―

郷行政書士事務所の応接室。
午前の光が静かに差し込むなか、明子はゆっくりと部屋のドアを開けました。
中にはすでに、郷と二郎、そしてゆき子の姿がありました。
明子とゆき子の視線が交錯した瞬間、室内の空気がぴんと張りつめます。
沈黙が数十秒続き、空気がさらに重たくなりかけたそのとき、二郎があえて明るい調子で口火を切りました。
「……えーっと、こうしてみんながそろったのは、本当に何年ぶりでしょうか。僕としては、こうして叔母さんと明子ちゃんが顔を合わせてくれただけでも、すごくありがたいと思ってます。」
その言葉に、ゆき子はわずかにうつむき、小さな声でつぶやきました。
「来てくれて……ありがとうね」
明子は応じません。
視線をゆき子の方へ向けたまま、表情を変えることなく座っていました。
郷が静かに場を整えます。
「本日は、おふたりが向き合う場を作れたこと自体が大きな第一歩だと思っています。信託契約の内容や役割については、無理のない範囲で、明子さんのご意向を聞きながら進めましょう。」
ゆき子はか細い声で言葉を重ねました。
「私ね……本当に頼れる人が誰もいなくて。だけど、あなただけには、迷惑をかけたくなかったの。でも……」そこで、また言葉が詰まりました。
明子は、ほんの一瞬だけまなざしを伏せ、それから再びゆき子を見つめました。
「それなら、どうしてあの日、あんな言い方をしたの?」
そのひとことに、場の空気が再び凍りつきます。
ゆき子が答えます。
「……言ってはいけないことだって、わかってたのよ。でも、あのときの私は……どうしても、あなたを責めずにはいられなかったの。」
ゆき子の声は、かすれていました。まるで言葉が過去の後悔を引きずっているかのように。
「お父さんが亡くなって、私……心が壊れそうだったの。 あなたと縁を切られたことが、本当はすごくつらくて、でも素直になれなくて…。」
明子は表情を変えず、ゆき子の言葉を黙って聞いていました。けれど、わずかにその瞳の奥が揺れているのを、郷と二郎は見逃しませんでした。
「……今さら、そんなことを言われても、すぐに許すなんてできません」
和解はもはやありえないのでしょうか?
虎震(トラブル)家の悩める人々~ゆき子の憂鬱(認知症への不安)⑧ ―家族信託という選択―

場の空気が沈黙に包まれる中、郷行政書士はゆっくりと手元の書類を整え、穏やかな口調で切り出しました。
「……それでは、本題に入りましょう。今回お呼びしたのは、ゆき子さんの今後の生活を守るための“家族信託”について、ご説明とご提案をするためです。」
郷は続けます。 「まず、確認させてください。ゆき子さんは、ご自身の財産管理や生活のことについて将来に不安を感じておられる。その一方で、現時点では、法定後見制度のように裁判所の監督が入る仕組みは、できれば使いたくない、というお考えですよね?」
ゆき子は小さくうなずきました。
「うん……できれば、家族に見てほしいの。信じられる人に。」
郷はその言葉を受け止め、明子のほうを向いて語りかけました。
「今回提案する家族信託は、ゆき子さんがご自身の判断力が十分な“今のうち”に、信頼できる人に財産管理を託しておく仕組みです。 ゆき子さんの生活費や介護費用、不動産の維持管理など、将来必要になる支出を安定的にまかなうための道筋を、今から整えておく趣旨です。」
明子は一瞬、視線を宙に泳がせました。そして、慎重に言葉を選びながら応じます。
「……つまり、私が“財産を引き継ぐ”のではなく、“管理する”ということ。そして、母の意思を反映しつつ、管理を私が担う。ということですね?」
「はい、そのとおりです。」と郷は静かに答えます。
明子の瞳の表情がすこし柔らかくなったのを、郷は感じ取りました。
虎震(トラブル)家の悩める人々~ゆき子の憂鬱(認知症への不安)⑨ ―にじむ記憶と、委ねる覚悟―

郷が説明を終えた後、応接室には再び静寂が訪れました。
その沈黙の中で、ゆき子は目を潤ませながら、そっと明子に手を差し出そうとしましたが、途中で止めました。 その代わり、静かに、しかしはっきりとつぶやきました。
「ありがとう……明子。」
その言葉に、明子はうなずきながらも、まだ距離を保ったまま、前を見つめていました。
―家族の信頼を取り戻すには、制度だけでは足りない。けれど、制度が“きっかけ”になることもある。
郷は、ゆっくりと手帳を閉じました。
「それでは、実務的なお話に移りましょうか。」と郷は静かに続けました。
「今回の信託契約では、受託者は明子さん。ゆき子さんの生活のために、信託財産を管理・運用していただきます。そして、万が一ゆき子さんが判断能力を失っても、明子さんが変わらずサポートできる状態が保たれるようにします。」
「信託財産には何が含まれるのですか?」と明子が尋ねました。
「現時点で検討しているのは、ご自宅の土地建物と、定期預金の一部。生活費や医療・介護費用の支出に備えるため、毎月の引き出し限度額も設けることになります。」
「……私が管理するにあたって、私の裁量で勝手に売ったり動かしたりすることはできない、ということですね?」
「はい。すべては“目的ありき”です。信託行為は、ゆき子さんの生活を守ることを最優先にします。使途を明確に定めることで、ご本人の意思をきちんと尊重できる仕組みです。」
明子はふっと息を吐きました。
「わかりました。ただ……この制度を使っても、私たちが“親子に戻れる”わけではないことも、分かっています。でも、母が誰かを頼りたいと思ってくれているなら、その意思には応えたいと思います」
ゆき子の目に、涙が光りました。
「それで十分……明子。それだけで、もう……救われた気がするの🥲」
虎震(トラブル)家の悩める人々~ゆき子の憂鬱(認知症への不安)⑩〈シリーズ最終回〉 ―公正証書に託した想い―

小雪のちらつく午後、市内の公証役場。
受付の前で小さく深呼吸をしたゆき子の背中を、明子がそっと支えていた。
その隣では、郷行政書士が公証人と軽く打ち合わせを終え、奥の会議室へ案内されようとしているところだった。
「さあ、行きましょう。今日は“決意の日”ですね。」
郷が柔らかく声をかけると、ゆき子は小さくうなずき、ゆっくりと足を踏み出した。
会議室の机の上には、公証人が読み上げる「家族信託契約公正証書」の正本と謄本が用意されていた。
郷が、あらためて説明する。
「本日は、ゆき子さんの財産管理について、公正証書として家族信託契約を締結する手続きです。 ゆき子さんの生活費・医療費に充てるための資金管理、そして自宅の保全について、明子さんが受託者として担うことになります。」
公証人が一言添えた。
「内容はすでにお二人と行政書士の郷さんで確認頂いています。契約当事者の意思確認が済み次第、正式に署名押印をいただきます」
そして、公証人が契約内容の要旨を読み上げていく。
一つひとつの条項に、家族の記憶と未来への不安が織り込まれているように感じられた。
そして読み上げが終わると、署名・押印の時が訪れた。 ゆき子の手はやや震えていたが、郷がそっと横に座って見守る。
ペン先が紙に触れ、彼女の名が記されると、次に明子が躊躇なく署名を加えた。
それはただの法的手続きではなく、「託すこと」と「受け取ること」を、形式ではなく“信頼”で結ぶ瞬間だった。
手続き後、公証役場のロビーで、明子はふと母に話しかけた。
「……公正証書って、すごく重たく感じるね。紙の厚みじゃなくて、決意の重さというか」
ゆき子は笑って返した。
「でも、紙にしてもらったおかげで、私も迷わなくなった。あとは、信じるだけでいいんだって思える」
「少しずつでいい。これからも、話せるときに話せれば、それで十分。」
明子も答える。
「……うん。それで十分だと思う。」
その様子を見守る郷と二郎は、少し離れた場所で顔を見合わせ、小さくうなずいた。
制度では埋められない溝もある。 けれど、制度が橋をかけることはできる。
その橋を、渡るかどうかは、人の意思なのだ。
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